映画「ドクター・ストレンジ/マルチバース・オブ・マッドネス」感想(2022.5.16)

吹き替えで観ました。三上ボイスのストレンジ先生が見たかったので!

 

ウィッチクラフトの本を拾い読みした時に心に残ったのが「魔女は自らを癒さなければならない」という言葉で、これをヒーロー作品のキャラクターであるワンダ、また明確に敵として描かれるスカーレット・ウィッチに当てはめるのって安直すぎないかなという理性はあるものの、私の内部としては「魔女」と呼ばれる存在になった女が何を願って力を行使し、何者から拒まれ、何を得るのか、というのが、こう、盛り上がりまして。

 

そしてまたこれが物語であり、時間の制限内で幕を引かなければならない映画というものだから、その中で生きるスカーレット・ウィッチも自分の眼に映ったものを受け入れて自ら後始末をするのか、全てを拒んで自分の外側の倫理によって始末をつけられるか、大きく道はふたつなんであって……。

 

正しさは癒しを与えるものではないし、誰かを想ってとる行動が悲しみを拭い去りはしない。けれども、それでも誰かのために動くという行為を思った時、それはつい30分前に観た「シン・ウルトラマン」とも通ずるテーマで、ウルトラマンと違ってワンダの場合はそこに微笑を浸透させることはできない最期だったんだけれども、微笑はワンダの役目じゃなかったものね。別の宇宙のワンダのものでもない。彼女の子どもたちのものなんだ。自分の知らない場所で自分のことを思い出さない誰かが微笑するために、悲しくつらい選択をできたんだなスカーレット・ウィッチは。

 

今回もストレンジ先生は有能だけど完璧ではなく、ウォンはかっこいいし頼りになり、マントちゃんは超有能で可愛くて、閉鎖的ミラー・ディメンション(だったのかな?)の静の世界は鳥肌が立つほど最高で、好きなシーンは色々あるのですが、中でも印象深いのは悪夢の中に目覚めるという二ヶ所シーンです。
サム・ライミ監督はCGによる特殊効果が発達する前の演出方法を愛着をもって出す人だなあと思っていたのですが、愛着の有無もあろうけれども、演出方法はやはり技術のひとつであり監督は意図的に用いてるんだなと思いました。監督なんだから当たり前のことか……。
悪夢の中に目覚めるシーンは、物凄く特殊な技法を使ってる訳じゃないんですよね。カメラの向きを90度傾けたり、同ポジションでカットを入れ替えたり。でもそれがどんな画面になるのか、観客にどういう感情を引き起こすのか、すごくよく知ってるんだなって。
ストレンジ先生側が物凄く不利になった時、切り札となる手がズッと現れるシーンがあるのですが、そこも古典的ホラーかつ救世主登場かつ意外性のハマり具合がすごくて、内心「サム・ライミ~~~!」と喝采しておりました。
禍々しいストレンジ先生とマント代理とかめっちゃめちゃかっこよかったですよね。背後から伸びてくる無数の悪霊の手なんて本来ホラーの王道なのにね。最高だったよね。

 

あとサム・ライミ~~~!と思ったのがゲロの音のリアルさ。

 

動きで魅せるのはアクションの心地よさだけど、この映画がよかったのは戦いの全部が全部そういう手段ではなくて、相手の息の根を止める方法と見せ方が、派手でなくともエグくて見ごたえがあったというか、これこれこれ~~~!という内心拍手喝采。これらのシーン、スカーレット・ウィッチが勝つので話の展開的には諸手を挙げていいシーンではないのだけれど、部屋着のワンダが返り血と真っ黒な機械油を滴らせてそういうエグい戦い方をすると、最高、自分でもこれやりたい、と観客としても創作者としてもテンションがブチ上がるものでございます。
このあと本命であるストレンジ先生一行を追いかけるスカーレット・ウィッチ、裸足の足を引き摺って追いかけるんですよね。もう、これは私の中で語り継いでいきたいと思う。

 

宇宙はたくさんあるのにたった一人しかいないアメリカちゃんの孤独とか、ようやく休むことのできる場所を得られた時あのシーンの、ウォンも言ってたけど誰かさんに似てる感じとか、こうして人間関係の下手なストレンジ先生の周囲が豊かになっていくのが本当に、この映画を観てよかった、いろんな危機や不安もあって、ちゃんとどっしり着地するラストの与えられる映画ってすごいなと思いました。
次の映画に繋がるクリフハンガーはあるんだけど、この物語はしっかり終わってるから。ハピエンは作者の甲斐性とは常々持論ですが、サム・ライミ監督の力量の力強さを全身で味わった映画でした。