「最後の決闘裁判」感想(ネタバレあり)

 知る価値のあるものであっても伝え方がまずければ拒絶されてしまうし、逆に痛みを与える内容であっても表現によってそれを最後まで伝えることができることもある。

 のっけから寄り道してしまうけれども、前者を感じたのはつい最近のことで『みんな政治でバカになる』(綿野恵太/晶文社)の「はじめに」がnoteで公開されており、それを読んだことによる。自戒、また今より良い行動を取るために気をつけたいなと思うことが書かれていたのだが文中に頻発するカタカナのバカという語は、たとえ前後の文脈を理解しておりどう用いられているか分かっていても頭の中に直接傷つける語として届いて、読み切るのに疲弊してしまったのだ。お前の感性だろ、と言われればそれまでの話にせよ。

 上記の本は映画とは全く関係ない。完全なる巻き添えである。

 話題を映画に戻す。じゃあ映画「最後の決闘裁判」は表現方法によりストレスが緩和された状態で重要部分が伝わったのかというと、観客にストレスと痛みを与え、鑑賞後はそれなりに暗澹とした後味を引き摺らせるものだったのだが、それを含めていい映画であると申し上げたい。私たちは自ら命の危険を冒すことなく安全な場所からより生々しい事実に近づくことができるのだから。歴史的に存在した事実。社会的、人間的普遍性をもった事実に。

 真実とは何か。

 この頃、真実という言葉の信用価値はそれほど高くない。あくまで自分の中での話だが。全部疑っているというより、人には人の真実があり…、という当たり前のことを思い出す機会が増えただけのことだが、私はこのことを忘れがちだ。真実は視点の数だけあり、主観から見るとそれこそが真実、なのだ。

 映画は3章に分かれている。訴えを起こした女性の夫、女性を強姦したと訴えられた男性、そして女性本人それぞれの視点から真実が描かれる。夫の視点で、しごくまっとうに権利が主張され訴えがされたと見えたものが、主観によって剪定された事実が別の視点から拾い上げられ、同じシーンでも全く様相を変える。一番事実に近い真相を語るのは強姦された女性だが、彼女はもともとが中世の女性、そもそも口を利く権利さえろくに与えられていないのが事態が進むほどに追い詰められ、真実の告発によってではなく最終的に決闘の勝敗に己の潔白を賭さざる得ない。

 が、これは中世故の事態だろうか。

 女性、マルグリットの傷つけられてゆく姿を見ると、私たちの祖先が女性の権利を認めさせるのにどれだけ傷つき倒れ、繋ぎ、努力してきたかをまざまざと感じることができる。同じ立場に立った時、この世から逃げ出さずにいられるだろうか。今からでも遅くないと証言を翻し沈黙したくはならないか。夫が決闘に敗れたら自分は火炙り刑に処せられることを彼女は裁判のその時まで知らなかったが、知らされても尚告発の意志を保ち続けたのだ。恐怖故に、屈辱故に、虐げ続けられる故に。孤独故に。

 男達が男らしさや当時の倫理観、支配者の権力(社会的支配者というだけでなく、狭い関係における支配者側としての権力)様々な要因から自分以下と見なす存在を足蹴にして生を謳歌し働き誇りを得、感情のままに憤る裏で、どれだけの沈黙が強いられ、傷が放置され、命と心が殺されたことだろう。夫は妻の訴えのために命を賭した決闘に赴く、それは事実だが、彼女のレイプの訴えを聞いた時夫は「奴は俺に邪悪なことばかりする」と憤った。これは妻の身を案じたり、彼女の尊厳の為に憤ったのではない。それに決闘で勝利した後の様子はまるでトロフィーを掲げるように妻を扱っている。彼にとって護られたのは妻を愛する男の誇り、家名、騎士の名誉だ。勝利し、潔白が見留められて尚、マルグリットは孤独である。

 夫が特別悪しき夫だったのだろうか。レイプで傷ついた身体に夫婦のセックスを強要したことは夫の真実の中には存在しない。彼は忘れている訳ではない。夫として当然のことをしたと思っているだけであり、真実の中には妻を愛している己の姿が記憶されている。だがそれも脚色、改竄されている。

 事実の脚色と改竄はレイプした男の真実の中でも起きている。彼女は自ら靴を脱いで男を誘ったことになっており、声を枯らして助けを求める叫びはなかったことになる。直前に発した「幸せにしたい」という発言は何なのか。が、それも彼の眼から見た真実なのだ。相思相愛だと思っている女性との関係の成就こそが幸せであるはずだと。

 このような事実の脚色や改竄は今でも起きるし、未来も起きる。人類が社会性を進化させても個人の視点は、主観は人間の数だけ存在し、そこには齟齬が生じる。古い話だ。高校時代倫理の授業をとっていた。最後の試験の筆記問題が、自分でテーマを決めて自由に論ずることだった。私は、真実は存在しない、と書いた。ビデオカメラであらゆる角度から撮影記録でもしない限り真実などあり得ないと。その時の採点は確か60点だったが、その点数がクラスの最高得点だったらしい。それを私はひそかに誇ったが、そう書くに至るには私自身痛みを伴う経験が必要だった。齟齬に鼻っ面を殴られ、味方を失い、孤独に陥り、真実は食い違うということをこっぴどく思い知らされた。これは私にとって重大な出来事だったのだが、あれから二十数年の時を経て今の自分がこのことをすっかり忘れていることを自己中心的な男達は、虐げられ口を封じられかけた女性は、思い出させてくれたのだ。

 これはそうとう私もやらかしている。中世という社会の厳しさ、政治世界の難しさ、何より女性にここまで権利がなく、強い男以外の存在がひたすら虐げられ沈黙を強いられるという事実に重苦しくなった心に囁きかける声がある。お前もだ、お前も自分自身の真実を信奉する加害者だ……。

 私たちはこの真実というものがどれだけ曖昧かを、自らの命を差し出さずして知ることができる。それは中世の戦争の息づかいを間近で感じる、勝利や宴の酔いと音楽、敗走の息詰まる疾走感を膚で感じる、馬上騎士の決闘の重量を迫力をもって感じることと並び、この映画の良い点なのだと意志の力を持って断言しなければならない。痛み多き世界に生きている、私も、目の前のあなたもだ。そう、目の前にいる誰かも、だ……。