8月5日のクラシックの迷宮

創作の方法論としても何度も頷いてしまう。

感情を直で伝え、音楽で高揚させる作曲家。

あからさまな表現に対し「違うのではないか」と考え作り続けた作曲家も、音楽そのものの力で強い衝撃を与えるくらいのことをしなければ戦争の悲惨さや個人の体験の残酷さを、それを体験しない人に感じさせるのは難しい、と考えるようになり、模索する。

「もえる」という言葉が繰り返されるコーラスは、逃げられない、どうしようもできない恐怖を感じさせた。

ファイナルディスポジターって小説の中の敵味方どちらにも属しない独自理念で動く一匹狼みたいな名前じゃない?

 と言う訳でホロスコープに関する話題をちまちま読んでいると知らない言葉に行き当たった訳である。その名もファイナルディスポジター。なんだか物語の中盤で突然登場して乱戦状態の現状をどでかい銃で黙らせる一匹狼的裁定者みたいな名前だと思いました。イメージだけでものを言う。胡乱。

 実際に何だったのかというと、個人天体の属するハウスの支配星(ルーラー)を見て、その支配星が属するハウスを見て、そのハウスが何座かを見て、その星座の支配星を見て……というのを10天体でやっていくと系統樹っぽいものが出来上がったり出来上がらなかったりするわけです。その最後に行きつく先がファイナルディスポジター。なるほど、最後に辿りつく星ってことか……。ちなみに1つの天体に収斂せず個人天体それぞれがバラバラのファイナルディスポジターを持つこともあるそう。

 で、こうして文章を書いているからには何か胸にハッとするような結果を見た訳です。太陽のファイナルディスポジターは水星。月のも水星。そして水星金星以下冥王星までのファイナルディスポジターは全て月。みんなが「月ー!」と月の名を呼んで相談しに行ったら、太陽と月が水星の両手をガッと取ってキャッキャウフフとくるくる回るような、そんな……なんかね、支配星という存在を知って自分で太陽と月だけでも辿ってみた時に緊密な循環関係を築いている……これは一体……と思ってたけどこういうことだったのか。

 月「清く! 正しく! 塵ひとつない精神の安寧を!」

 水星「そこに本さえあればいい!」

 昨年、膵臓に経過観察要素を持っていることが発覚して以来、定期的にモノを手放し部屋を片付け身辺整理をしているのだけれども、その最終形態として目指す部屋がまさしく月&水星の目指す形だったので、清潔がストレスを取り除くんだなと、自分の中のシステムが明文化された感じです。

 ええ、ちなみにどうやったら人生の大目的として心の安定を得ることができるかの話、ホロスコープ的には私、対等な友人を持ち適切な愛情と関係を築くことなのですが、精神の安らぎ、本と知、対等な友人、これ全部実践してる人を最近知っている。アルハイゼンだ。私のホロスコープはアルカヴェか?

 アルハイゼンの生き方は自分にとってひとつこうなりたいロールモデルなんじゃないかと思う今日この頃です。

映画「ボーダー 二つの世界」ネタバレあり感想(2022.9.7)

昨夜、見終えた勢いのままに語った感想の言葉はミスリード的だったという自覚がだんだん強くなったので、改めて感想を言葉にしておきたいと思う。しかしフェアな感想は目指すまい。なるべく私個人の視線に忠実に。

 

鑑賞直後の感想で私は何度も「美しい」という言葉を繰り返した。決断が美しい。葛藤が美しい。これは揺るがず胸に在り続ける感想である。決断の結果、彼女は初めて心を許し合えた相手との関係を自ら断ち切ることとなり、しかも相手の死(とその場では思われるもの)に直面した。その時の画面は本当に美しかったのである。真夜中のフェリー。照明がこうこうと照らすデッキとは対照的に闇に沈む海。愛した相手が沈んでいった海。そこに映し出される半分影になった主人公の横顔を涙が伝う。

ここで私は大前提となる言葉を加えていなかった。主人公の外見は醜いということを。

動物的造形。映画の「アバター」の現地民や実写版「美女と野獣」の野獣は、やはりそこはたくさん人を呼び込んで人に愛されるべく、異形でありながらも美しい。でも多分、人間を動物化したら、もっと野性的造形にしたならばこういう形になるのだろう。こういう時、顔の描写の修練を積んでおけばよかったと思うのだが、何て表現すればいいのかしら。それこそ鼻面のように額からおうとつなく鼻に続いているシルエットとか、くぼんだ丸い目とか。いつも半開きな唇からは歯が剥き出しになっている。

でもそこにあったのは美だったんだよ。でも美を感じている自分は主人公をどう見ていたかと言うと醜い人間としてではなく、一種の動物が、生まれた時から自分を取り巻き形成してきた社会が自分の本来の出自を拒み卑下してきたことを知った上で、それでも自分の中に育まれた倫理観と正義に従って行動し、肉体としての存在ではなく、社会的存在として行動を選択したということが、それを表現している画面が澄み切った水晶が夜を映しているかのような透明で壊しがたい硬質な美しさを持っていると感じたんですよ。

 

経済とカネをテーマに取り扱った漫画『ハイパーインフレーション』では差別的と思われたくない人間の心理について語った回があって、今の自分がそれに囚われてないかって言ったら十中八九囚われてるんだけど、そこはそこで人間の女子の美醜において明らかに醜いカテゴリに入ってる自分であるから見た目で人を嘲笑されてきた分、他人にはそれをしたくないし、つまり主人公は本当に醜い容姿だということを強く意識してるんだけど……、差別をする人間と思われたくない、差別的表現をしたくない、よき人と思われたいという欲求は制御が難しいねえ。

 

私が主人公を人間ではなく、人間とは異種の動物と捉えているのは映画の流れ的にはあっている。で、決断や葛藤の美しさを感じるシーンで、主人公を動物と捉えながら感じることは、それもまた人間側による自己満足的、ポルノ的捉え方ではって思っちゃうんだけど、差別、区別、排他、選り分け、等々の感情を抱えたまま生きていくのが人間なんだ世界は白黒はっきり分かれてる訳じゃなくて灰色だぞ観念しろオラッ!という訳で、人は心が美しければ美しいのだという「美女と野獣」が語ったような真実の愛を私は持ちえないんだけど、でもあのシーンについて尋ねられたら「美しかった、個人的には」と断言する。していこうな。そういう人間なんだから。

 

さて作中には性描写や森を全裸で走り回るシーンがあるんだけど、そのへんをどう見たかと言うと上記通り、私は主人公を動物の一種として見ているのであり、そこは全然、特に笑うところでもなく……むしろ「劇中、ラジオから流れてた曲のタイトルが知りたいな」とさっき検索をかけたら気持ち悪いという感想や嘲弄する言葉を見かけてたいそうへこんだ訳ですが、そこは美醜云々というよりは主人公の本来の種としての生態って感じなので、この先思い切りネタバレ的文言を使うのですが、

 

ムーミンってリアルに存在させたらこういう感じなんだな、と。

 

というかムーミントロールって上位種なんだなあと知った。そこらの動物より強いし、言うことをきかせられる立場なんだ。色々と目から鱗でした。

で、ネタバレの関連から一行空けしちゃったけど醜い、あるいは気持ち悪いという点に関しては劇中に描かれる児童ポルノ摘発で明らかになる実態の方がおぞましくて、むしろ気持ち悪くてこれ以上見たくない知りたくないと思ったのはそっちだったし、一周した結果、児童ポルノ問題において何よりもまず第一に救済すべきは被害者ってほんとそうだよ……と落ち込んだ。

しかし映画が加えた原作にないこの要素こそ、映画を原作以上のクオリティにしているのであり、ルーツとしての自分は何者か、人間社会で数十年間育まれてきた自分という存在は何なのか、どの生き方を選択するのか、という物語の関節をより力強いものにしている。

 

虫を食べるシーンがあるので、そういうの苦手な人は本当に苦手だから無理しなくてもいいなとは思う。ちなみに私も昆虫食に親しんでいるということは全くなく、イナゴの佃煮も生涯食べることはないと思うんだけど、この映画で見る分には動物の生態だなと納得しながら見られたし、食べる瞬間の自然な素早さというのが「ああ、野性とは粗雑ではなく生存と狩猟の為に洗練された仕草や動作なのだ!」と気づいて自分の中では小さな感動が生まれていました。

映画「ドクター・ストレンジ/マルチバース・オブ・マッドネス」感想(2022.5.16)

吹き替えで観ました。三上ボイスのストレンジ先生が見たかったので!

 

ウィッチクラフトの本を拾い読みした時に心に残ったのが「魔女は自らを癒さなければならない」という言葉で、これをヒーロー作品のキャラクターであるワンダ、また明確に敵として描かれるスカーレット・ウィッチに当てはめるのって安直すぎないかなという理性はあるものの、私の内部としては「魔女」と呼ばれる存在になった女が何を願って力を行使し、何者から拒まれ、何を得るのか、というのが、こう、盛り上がりまして。

 

そしてまたこれが物語であり、時間の制限内で幕を引かなければならない映画というものだから、その中で生きるスカーレット・ウィッチも自分の眼に映ったものを受け入れて自ら後始末をするのか、全てを拒んで自分の外側の倫理によって始末をつけられるか、大きく道はふたつなんであって……。

 

正しさは癒しを与えるものではないし、誰かを想ってとる行動が悲しみを拭い去りはしない。けれども、それでも誰かのために動くという行為を思った時、それはつい30分前に観た「シン・ウルトラマン」とも通ずるテーマで、ウルトラマンと違ってワンダの場合はそこに微笑を浸透させることはできない最期だったんだけれども、微笑はワンダの役目じゃなかったものね。別の宇宙のワンダのものでもない。彼女の子どもたちのものなんだ。自分の知らない場所で自分のことを思い出さない誰かが微笑するために、悲しくつらい選択をできたんだなスカーレット・ウィッチは。

 

今回もストレンジ先生は有能だけど完璧ではなく、ウォンはかっこいいし頼りになり、マントちゃんは超有能で可愛くて、閉鎖的ミラー・ディメンション(だったのかな?)の静の世界は鳥肌が立つほど最高で、好きなシーンは色々あるのですが、中でも印象深いのは悪夢の中に目覚めるという二ヶ所シーンです。
サム・ライミ監督はCGによる特殊効果が発達する前の演出方法を愛着をもって出す人だなあと思っていたのですが、愛着の有無もあろうけれども、演出方法はやはり技術のひとつであり監督は意図的に用いてるんだなと思いました。監督なんだから当たり前のことか……。
悪夢の中に目覚めるシーンは、物凄く特殊な技法を使ってる訳じゃないんですよね。カメラの向きを90度傾けたり、同ポジションでカットを入れ替えたり。でもそれがどんな画面になるのか、観客にどういう感情を引き起こすのか、すごくよく知ってるんだなって。
ストレンジ先生側が物凄く不利になった時、切り札となる手がズッと現れるシーンがあるのですが、そこも古典的ホラーかつ救世主登場かつ意外性のハマり具合がすごくて、内心「サム・ライミ~~~!」と喝采しておりました。
禍々しいストレンジ先生とマント代理とかめっちゃめちゃかっこよかったですよね。背後から伸びてくる無数の悪霊の手なんて本来ホラーの王道なのにね。最高だったよね。

 

あとサム・ライミ~~~!と思ったのがゲロの音のリアルさ。

 

動きで魅せるのはアクションの心地よさだけど、この映画がよかったのは戦いの全部が全部そういう手段ではなくて、相手の息の根を止める方法と見せ方が、派手でなくともエグくて見ごたえがあったというか、これこれこれ~~~!という内心拍手喝采。これらのシーン、スカーレット・ウィッチが勝つので話の展開的には諸手を挙げていいシーンではないのだけれど、部屋着のワンダが返り血と真っ黒な機械油を滴らせてそういうエグい戦い方をすると、最高、自分でもこれやりたい、と観客としても創作者としてもテンションがブチ上がるものでございます。
このあと本命であるストレンジ先生一行を追いかけるスカーレット・ウィッチ、裸足の足を引き摺って追いかけるんですよね。もう、これは私の中で語り継いでいきたいと思う。

 

宇宙はたくさんあるのにたった一人しかいないアメリカちゃんの孤独とか、ようやく休むことのできる場所を得られた時あのシーンの、ウォンも言ってたけど誰かさんに似てる感じとか、こうして人間関係の下手なストレンジ先生の周囲が豊かになっていくのが本当に、この映画を観てよかった、いろんな危機や不安もあって、ちゃんとどっしり着地するラストの与えられる映画ってすごいなと思いました。
次の映画に繋がるクリフハンガーはあるんだけど、この物語はしっかり終わってるから。ハピエンは作者の甲斐性とは常々持論ですが、サム・ライミ監督の力量の力強さを全身で味わった映画でした。

映画「シン・ウルトラマン」感想(2022.5.15)

実はウルトラマンを観るのが初めてである。
特撮に縁がなかったとは言わないが、子どもの頃は人間よりも人形劇が、実写よりもアニメーションが好きだった。成長して価値観にも幅で出てきた後に放送が始まったティガも、主題歌は何となく歌えるけど、観たことはなかった。特撮の中でもウルトラマンは、ゴジラ仮面ライダーに比べて、何故か一番縁遠い作品だった。
が、別に苦手という訳ではなく、予告ですごく面白そうだったので観に行きました。

 

いやあ、もう、音や声を聞くだけでもかなり良かった。セリフ回しや会話が心地よかった。言葉は基本、スクリーンの中の登場人物間でコミュニケーションをとるために発せられこちらはそれを聞いているのであり、語るのは言葉ではなく画面そのものなのである、というのがほんと良かったのですが、これが何かと具体的に申しますと左手薬指に指輪をはめた西島秀俊プライヴェートが全く露顕しないにも関わらず、その生き方、私的な部分は確かにあるのでありその私的側面をいかに守っているのか、がうっすら透けて見えるのが本当に、わたしこういうことがやりたいんですよね…と憧れた。
西島秀俊と言えば私の中ではいまだに「MOZU」の姿が強く印象に残っており、わあ、俳優さんはこういう人物にも成るんだ、と味わいが深かったです。
同じく「MOZU」の印象がいまだ強い長谷川博己氏に関しても一度、強烈な別の映画を観た方がいいんではないか。それこそ「シン・ゴジラ」が未見なのですが。

 

それまで常識の外にあったものが突然現れることによって世界にどう打撃が与えられるのか、そして日常は常識外のものをその風景の中に溶け込ませていくのか。避難ののんびりしたペース、一方では危機が迫ることを知っていても、人波にとけこんでそこらの角を覗けば散髪という今日それから明日を快適に生きるための行為がなされている、
世界を揺るがす技術が提示されても多くの人間はそれを品性と礼儀をもっては迎えないし、世界を変えるターニングポイントの式典は紅白幕の内側で行われる。
この溶け合い具合がじわじわと映画と現実の境界を崩し、架空の世界を浸潤させる。

 

私はそもそもウルトラマンがどうして地球にやって来て、怪獣から人間を守ってくれるかは全く知らなくて……と初見なりにウルトラマンという存在についても書き留めておこうと思ったんですが、ネットでちらほら感想を読んでそれで満足しちゃった。初見の悲鳴は美味なものですが、今回は違うと思うので、おいおい自分が読み返した時に考えをなぞるヒントだけ書いておこう。
「光の国からぼくらのために」と歌われる彼が、どうしてそんな遠い場所からやって来て、無条件に人間を救ってくれるのか。劇中、ウルトラマンという存在が様々に利用されるのを見るにつれ、何故「ぼくらのために」そこまでという思いが募ったけれども。裁定者と会話する彼の言葉をもっと注意深く聴かなければいけなかったな。どうしてか、彼の声は遠く、小さく、聞こえた。

 

感情が飽和する直前にスッと引く演出、特にラストの引き際は見事だったなあ。引き算の重要性を知る。

「最後の決闘裁判」感想(ネタバレあり)

 知る価値のあるものであっても伝え方がまずければ拒絶されてしまうし、逆に痛みを与える内容であっても表現によってそれを最後まで伝えることができることもある。

 のっけから寄り道してしまうけれども、前者を感じたのはつい最近のことで『みんな政治でバカになる』(綿野恵太/晶文社)の「はじめに」がnoteで公開されており、それを読んだことによる。自戒、また今より良い行動を取るために気をつけたいなと思うことが書かれていたのだが文中に頻発するカタカナのバカという語は、たとえ前後の文脈を理解しておりどう用いられているか分かっていても頭の中に直接傷つける語として届いて、読み切るのに疲弊してしまったのだ。お前の感性だろ、と言われればそれまでの話にせよ。

 上記の本は映画とは全く関係ない。完全なる巻き添えである。

 話題を映画に戻す。じゃあ映画「最後の決闘裁判」は表現方法によりストレスが緩和された状態で重要部分が伝わったのかというと、観客にストレスと痛みを与え、鑑賞後はそれなりに暗澹とした後味を引き摺らせるものだったのだが、それを含めていい映画であると申し上げたい。私たちは自ら命の危険を冒すことなく安全な場所からより生々しい事実に近づくことができるのだから。歴史的に存在した事実。社会的、人間的普遍性をもった事実に。

 真実とは何か。

 この頃、真実という言葉の信用価値はそれほど高くない。あくまで自分の中での話だが。全部疑っているというより、人には人の真実があり…、という当たり前のことを思い出す機会が増えただけのことだが、私はこのことを忘れがちだ。真実は視点の数だけあり、主観から見るとそれこそが真実、なのだ。

 映画は3章に分かれている。訴えを起こした女性の夫、女性を強姦したと訴えられた男性、そして女性本人それぞれの視点から真実が描かれる。夫の視点で、しごくまっとうに権利が主張され訴えがされたと見えたものが、主観によって剪定された事実が別の視点から拾い上げられ、同じシーンでも全く様相を変える。一番事実に近い真相を語るのは強姦された女性だが、彼女はもともとが中世の女性、そもそも口を利く権利さえろくに与えられていないのが事態が進むほどに追い詰められ、真実の告発によってではなく最終的に決闘の勝敗に己の潔白を賭さざる得ない。

 が、これは中世故の事態だろうか。

 女性、マルグリットの傷つけられてゆく姿を見ると、私たちの祖先が女性の権利を認めさせるのにどれだけ傷つき倒れ、繋ぎ、努力してきたかをまざまざと感じることができる。同じ立場に立った時、この世から逃げ出さずにいられるだろうか。今からでも遅くないと証言を翻し沈黙したくはならないか。夫が決闘に敗れたら自分は火炙り刑に処せられることを彼女は裁判のその時まで知らなかったが、知らされても尚告発の意志を保ち続けたのだ。恐怖故に、屈辱故に、虐げ続けられる故に。孤独故に。

 男達が男らしさや当時の倫理観、支配者の権力(社会的支配者というだけでなく、狭い関係における支配者側としての権力)様々な要因から自分以下と見なす存在を足蹴にして生を謳歌し働き誇りを得、感情のままに憤る裏で、どれだけの沈黙が強いられ、傷が放置され、命と心が殺されたことだろう。夫は妻の訴えのために命を賭した決闘に赴く、それは事実だが、彼女のレイプの訴えを聞いた時夫は「奴は俺に邪悪なことばかりする」と憤った。これは妻の身を案じたり、彼女の尊厳の為に憤ったのではない。それに決闘で勝利した後の様子はまるでトロフィーを掲げるように妻を扱っている。彼にとって護られたのは妻を愛する男の誇り、家名、騎士の名誉だ。勝利し、潔白が見留められて尚、マルグリットは孤独である。

 夫が特別悪しき夫だったのだろうか。レイプで傷ついた身体に夫婦のセックスを強要したことは夫の真実の中には存在しない。彼は忘れている訳ではない。夫として当然のことをしたと思っているだけであり、真実の中には妻を愛している己の姿が記憶されている。だがそれも脚色、改竄されている。

 事実の脚色と改竄はレイプした男の真実の中でも起きている。彼女は自ら靴を脱いで男を誘ったことになっており、声を枯らして助けを求める叫びはなかったことになる。直前に発した「幸せにしたい」という発言は何なのか。が、それも彼の眼から見た真実なのだ。相思相愛だと思っている女性との関係の成就こそが幸せであるはずだと。

 このような事実の脚色や改竄は今でも起きるし、未来も起きる。人類が社会性を進化させても個人の視点は、主観は人間の数だけ存在し、そこには齟齬が生じる。古い話だ。高校時代倫理の授業をとっていた。最後の試験の筆記問題が、自分でテーマを決めて自由に論ずることだった。私は、真実は存在しない、と書いた。ビデオカメラであらゆる角度から撮影記録でもしない限り真実などあり得ないと。その時の採点は確か60点だったが、その点数がクラスの最高得点だったらしい。それを私はひそかに誇ったが、そう書くに至るには私自身痛みを伴う経験が必要だった。齟齬に鼻っ面を殴られ、味方を失い、孤独に陥り、真実は食い違うということをこっぴどく思い知らされた。これは私にとって重大な出来事だったのだが、あれから二十数年の時を経て今の自分がこのことをすっかり忘れていることを自己中心的な男達は、虐げられ口を封じられかけた女性は、思い出させてくれたのだ。

 これはそうとう私もやらかしている。中世という社会の厳しさ、政治世界の難しさ、何より女性にここまで権利がなく、強い男以外の存在がひたすら虐げられ沈黙を強いられるという事実に重苦しくなった心に囁きかける声がある。お前もだ、お前も自分自身の真実を信奉する加害者だ……。

 私たちはこの真実というものがどれだけ曖昧かを、自らの命を差し出さずして知ることができる。それは中世の戦争の息づかいを間近で感じる、勝利や宴の酔いと音楽、敗走の息詰まる疾走感を膚で感じる、馬上騎士の決闘の重量を迫力をもって感じることと並び、この映画の良い点なのだと意志の力を持って断言しなければならない。痛み多き世界に生きている、私も、目の前のあなたもだ。そう、目の前にいる誰かも、だ……。